- thyroid surgery by Graves(Basedow) - はむ!のバセドウ20年(甲状腺摘出手術等体験記)

 本サイト管理人はむ!(hamu)は、さる2011年10月、甲状腺の全摘出手術を受けました。長年持ち続けたバセドウ氏病の治療のためです。ホームページを通じて皆さんにお世話になっている管理人はむ!としては、同じような症状と付き合っている方や、その他病気による手術を受けようと思われる方などに少しでも参考になればと思い、この病気にかかってから、手術、再入院、そして現在にいたるまでの経緯をまとめてみました。もし興味があればしばしお付き合いいただければ幸いです。なお、古い話は記憶が定かでない場合があって、時期などが多少正確でないことがありますが御容赦ください。

 なお、このページは一個人の体験記です。ですから正確でない文章も多々あります。本サイトを参考にされる場合、たとえ私と同じような病気・症状であっても、治療方法は人によって違いますので、必ず専門の医師の診察をお受けになってその指示に従ってください。

 

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第1章 バセドウ発症から手術を決断するまでの20年

1 発症まで
 はむ!と甲状腺の病気との長いおつきあいがいつから始まったかは、実はよくわかりません。自分でも特定できないのです。はっきりしていることは、平成5年(1993年・手術の18年前)の9月、当時東京にいた時の職場の健康診断で「脈に異常あり(洞性頻脈)」と診断され要精密検査となり、精密検査に行った病院で「甲状腺機能亢進症」と診断されたところから、この病気とのつきあいが始まりました。
 その前提として、その前後のはむ!の暮らしぶりをお話しましょう。(興味ある人だけ読んでください。)
 はむ!は、平成4年(1992年)27歳の時、その時勤めていた神戸の職場からの命により、東京に転勤することになりました。ここでは激務というか、建物全体がそういう緊迫した雰囲気で包まれていた職場です。はむ!自身も、まあ、忙しかったといえば忙しく、終電過ぎても仕事するようなことはままありましたが、それでも他の部署の人たちに比べりゃ楽なほうだったし、私生活も、飲んだり遊んだりと、それなりに楽しんでいたと思います。
 チョットしんどかったことと言えば、当時の住まいが職場から遠く、毎日の通勤が満員電車で1時間以上立ちっぱなしだったこと。その住まいというのが今でいうルームシェアで、3DKの家族用社宅を同じ職場の3人で暮らすという生活を送っていたことぐらいですが、それもつらいってほどではありませんでした。
 そしてそれから1年ほどたってようやく仕事や東京での生活にも慣れてたわけですが、今から思えば、そのころから体調の変化の兆しが見え始めたものと思われます。おかしいと気づく前までの思い当たる事柄を挙げてみます。
 
・92年度の職場のマラソン大会(とはいっても皇居半周ずつ4人でたすきリレー)に出場したが、途中で大きく息切れしてバテバテ。襷をつなげなきゃなんないので、途中でリタイアするわけもいかず、最後は歩きながら最下位で次の走者に襷を渡す。(もともと走るのは苦手な方だが、こんなにダメだとは・・)
・93年ごろから、通勤電車の立ちっぱなしが特に苦痛に感じ始める。気分が悪くなる時もあり、満員電車の中でしゃがみ込んでしまったことがあった。その後は座れる電車を求めて始発駅まで行って10分以上待つなどの工夫をしたが、とにかく通勤がつらくなった。
 
・飲み会などあっても疲れやすく、20代の若者(?)なのにトンズラして帰ることばかり考えてしまうようになった。
 
・仕事でも集中力が欠けてぼーっとしてしまうことが多くなり、ミスを出してしまったこともあった。
・1993年といえば、いわゆる平成米騒動の年で超冷夏であったが、4畳半ひと間エアコンなし東向き部屋に住んでいたこともあり、暑くてたまらなかった。
・そのうち、へたくそテニスなどの軽い運動をしただけでもバテバテで、半分熱中症になったりすることもあった。
・食欲だけは思い切りあってすぐ腹が減るので、買い食いをよくしていたのと、のどが渇きやすくなり、缶ジュースなどを飲みまくっていた。
 
 上記以外でも、今から思えば・・ということはいくつかあります。93年秋頃には、さらに疲れやすくなり体重も減り始めました。しかし、それは自分の根性や鍛え方が足りないせいだと思い、そのまま我慢して過ごしていました。(変な意味で自分に負けたくないという気持ちがあったのかもしれません。)
 その後、職場の定期健康診断があり、脈が速く心電図に異常があるとのことで、要精密検査になりました。仕方なく職場の近くの病院に検査を受けに行き、そこで診察の医師から「甲状腺機能が亢進し甲状腺ホルモン分泌が過多になっている。通院して治療する必要がある。」という趣旨のことを言われました。
 しかし、そんなこと言われてもピンと来なかったし(今の時代みたいにインターネットでもあれば調べたりするのだろうけど)、そもそもこのクソ忙しいのに通院なんてやってられない。と思いましたが、言われてみれば体調も悪いし、医師も、放っておくと倒れることもあるとか大げさに言うので(当時は本当に大げさに感じた。)、しょうがなく通院することにしました。職場には「大したことないです。何回か通えば治ると思います。迷惑かけません。」なんて言ってたと思います。
 
2 通院開始
 そんなこんなで1994年(平成6年)初頭ごろから本格通院開始となりました。この時から、その後長年付き合うこととなる、甲状腺の機能を押さえる薬「メルカゾール」の服薬が始まりました。初めは毎食後1錠だったと記憶しています。診察は月1回程度、それに採血や検査(心電図や骨密度の検査なども含む)があったので、やはり時々仕事を休まなければならず、そのことがすごく嫌でした。
 メルカゾールを飲み始めたころは、しばらく体中にじんましんのようなものが出て、かゆくて夜も寝られないほどになり困りました。(その当時の写真で、腕のじんましんを掻いているやせた自分の姿が映っているものがある。)あと、体が固まったようになり、足を上げたり腰を曲げたりすると、筋肉がつって激痛が走ることが時々ありました。これらの症状はメルカゾールの飲み始めにはよくあることだそうです。しかしながら、数ヶ月経てば薬に慣れてきて、症状も収まり、体調も回復して疲れも出にくくなりました。94年の夏は前年と打って変わって非常に暑い夏でしたがあまり苦しむことなく十分乗り切ることができました。
 それから1年ほど過ぎたでしょうか。自分でももう治ったと思うくらいに回復しました。(1995年は阪神淡路大震災の年。震災の1週間後に救援物資などをスキーバッグに思い切り詰めて実家のある神戸に運んだりしていたので、体力的にも問題なかったと記憶している。)しかしながら、メルカゾールの服薬と月1回の通院は続きます。もう治っているのにいつまで病院通いしなきゃなんないのか、という気分でした。仕事も忙しいのに病院など行ってたらその都度検査や待ち時間などで半日はつぶれるので、周りにすごく気を遣うのもつらいことでした。
 しかし、検査の数値は、FT3とFT4(甲状腺ホルモン)の分泌は収まってはきているもののまだ高く、また、TSH(甲状腺刺激ホルモン)が低いままで、治っているとは言えない、というか、この病気は、人にもよるが長期にわたる経過観察が必要であるとのことでした。メルカゾールの量を減らせばホルモンの分泌が高くなり、増やせば症状は収まるがいつまでも飲み続けなければならない。メルカゾールと逆の効能の「チラーヂン」(甲状腺ホルモン)という薬を同時に飲んで様子を見たような時期もありました。本当に先の見えない治療でした。なお、この時期の症状としては軽い手の震え、不整脈などもありましたがほとんど自覚はありませんでした。
 
3 やせ我慢の数年間
 実は、体調は問題ないとは言いながら、それは自分が悪い意味で我慢強いだけで、やっぱり疲れやすいという症状は続いていたのでした。特に運動などするとかなりつらく、富士登山に行ったときには八合目手前でリタイヤ、誘われて行ったスポーツジムでも大バテ。飲みに行ったらあまり飲んでないはずなのに酔っ払って気がついたら公園で寝ていた。なんてこともありました。しかし、自分ができないことを病気のせいにしたくない(というか、病気のせいで職場や人から取り残されるのがいやだ。)、という気持ちが強かったのだと思います。それがまたこの病気を長引かせる原因だったのかもしれません。
 1996年(平成8年)ごろには、職場の係が変わったり、一つ上の職階に上がったりして、さらに忙しくなりました。一方、仕事上でのミスもあったりしました。そんな状況では、病院に行くこともできず(決して行けなかったのではなく、行ってはいけないような気持ちに自分で勝手になっていた。) だんだん通院をサボるようになり、薬は余ったものを、勝手に自分で数を減らして飲んだりしました。そのようにしても、すぐには体調が悪化したわけではありませんでしたが、そのうち体重が著しく減りはじめ、10kg以上激やせに。一方ではものすごい食欲で常に何か食べてないと気が済まなくなったりと、とんでもなくアンバランスな状況になりました。
 体調に関しては、23区内に引っ越して通勤が楽になったこと、それから、疲れやすいことに慣れてしまったせいか自分で適当に行動を調節するようになり(いわゆる手抜きを覚えるようになった。)つらいのにつらくないという妙な感じで過ごしていました。(当時の自分の写真を見るとやせすぎていて、やはり病的な感じ。)
 その後も病院に行ったり行かなかったりでのらりくらりと1,2年過ごしていました。一方、暴食を続けたせいか、あるいは甲状腺亢進症に伴うカルシウム不足かどうかはわからないが、このころから歯が特に悪くなり始めました。しかしこちらも治療に行けずにしばらく放っておいたところ、さらにひどくなってしまい、それでも今治水やシュミテクトなどで痛みをごまかしていました。そして1997年(平成9年)後半ごろ、ついに前歯が2本欠けてしまい(何もしていないのに突然欠けた。)、ようやく重い腰を上げ歯医者に行きました。そこで奥歯も含めひどく悪くなっているというこで(5本ほど歯を抜かなければならず、ブリッジや差し歯、かみ合わせの矯正などで、安く見積もっても治療費100万円ほどかかると言われた。ヒェー!)、治療を開始するに当たっては歯を抜いたりするので、念のため持病の甲状腺の状態を医師に確認してくれと言われ、仕方なく病院に行って診察と再検査をすることになりました。
 その結果、当然のことながら甲状腺機能関係の数値も悪化していました。しかし、医者には治療をサボってたことをとがめられることなく、メルカゾールの量を増やして(1日5~6錠)治療を続けましょう。という感じで言われました。このころになると自分自身少しは落ち着いたのか、悟りを開いたのか、素直に医師の話を受け入れるようになり、病院通いもするようになりました。
 
4 病気と向き合う
 時は1998年(平成10年)。薬の増量と前年からの歯の治療が相まって、体調が少しずつ戻ってきました。そんな中、私生活において自分の人生の転機と言っても良いインターネット、ホームページとの出会いがあり、また、仕事も軌道に乗り始め、心身ともに充実してきました。体重も増加し始め、やせこけた頬も戻って顔つやも良くなってきました(他人談)。
 体調の回復、精神的な充実そして人生の視野の広がりにより、病気にきちんと向き合いながら、自信を持って自分らしい人生を送ろうと思えるようになりました。自分の場合、薬をきちんと飲んでいさえすれば全く普通に過ごせるわけで、むしろそのことは幸せなことなんだと考えられるようになったということです。
 その後さらに体調は回復。それ以上に大きかったことは、自分の体調を自分で知り、頑張りどころでは頑張り、疲れたら息抜きと、セルフケアをきちんとできるようになったということです。そして、ここから数年は、仕事に遊びにと、とてもパワフルに活動できるようになりました。(本サイト「HPの歴史」で書いたように、インターネットを通じた多くの人との交流・出会いが、自分にとって更なる力となりました。)
 さて、しかしながら、調子が良くなったからといって、甲状腺機能亢進症がすぐに治るというわけにはいきません。薬は1日3錠ぐらいまで減量していきましたが、甲状腺機能の数値は、減量すれば悪くなり、増量すればまた良くなるという繰り返しでした。医者はそれでも薬の増減で様子を見るということをずっと続けました。体調自体は全く悪くないのに、いちいち有給休暇出して行かなきゃなんない病院通いは正直嫌でした。でも行かなきゃ薬くれないし、薬飲まなきゃまた以前みたいに体調も悪くなるし。ただ病院通いはだんだん自分のライフワークの一つとなってきており、それほど苦に感じることはなくなりました。
 
5 甲状腺機能亢進症からバセドウ病へ
 そんなこんなで、時は経ち2003年(平成15年)、東京から高知に転勤(2,3年おきの地方転勤生活のスタート、我々の職場の宿命でもある。)となり、病院も変わりました。そこでも同様の治療を続けていったわけですが、そこの医師に初めて「結構首腫れてますね。」と言われました。実はそれまでにもすでに甲状腺は肥大していて、東京時代の医師も診察の度に首を触っていたのだけど甲状腺肥大についてはあまり言及していなくて、自分で意識しはじめたのはこの時からです。しかし、高知では引き続き体調も良かったし(結婚前後で北海道しょっちゅう往復してたくらいだから*^^*)、医師もそれほど問題にしていなかったので、同じようにメルカゾールの投薬で過ごしました。
 さらに、2005年(平成17年)、今度は宮崎に転勤。もちろん転院。ここで初めて「手術も考えた方が良い。」と言われました。このころになるとインターネットなどで自分の病気についての知識も十分に得られる時代。甲状腺機能亢進症はバセドウ病の症状であり、その治療方法は、投薬か放射線治療か手術のいずれかであることも知っていました。だから、手術を勧められても決して驚くことではありませんでした。しかしながら、この時点でもう発症から10年以上経っていて、ずっと薬で体調を維持してきたわけだし、薬を飲み続けることに問題がないのなら、自分の体を傷つけてまで治療したいという気持ちはありませんでした。そのときの医師には「手術しなくて済むのならばしたくない。薬を飲み続けていても問題ならば、一生かかってでもそれでいい。」と伝えました。医師は「薬を飲むことによる悪影響はないが、一生涯にわたってどうなるかは、はっきりと言えない。」と言っていました。
 ただ、宮崎の病院で初めて電子カルテの画面を見ることになり、そこに自分がバセドウ病と書いてあることを発見。それまでは自分は甲状腺機能亢進症という病気であると思っていたので(そのように説明されていた。)ほとんど同じ意味であることは間違いないのであるが、何か宣告された気分になったことは否めません。結局宮崎には3年いましたが、これとは別に肺クリプトコッカスという他の甲状腺とは関係ない病気で入院したこともあり、そちらの検査・治療の方が大変だったので、甲状腺に気にかけている暇もなく、これまでどおり投薬のみで過ごしました。ただ、後で知ったことですが、肺の疾患の時、治療しても咳が完全に収まらなかったのは、甲状腺肥大が肺を圧迫し始めていたのも一つの原因だったようです。
 2008年(平成20年)には石川に転勤。ここでも同じように「手術した方が良い。」と言われました。このころから甲状腺の肥大さらに目立つようになってきていること、TSHの値がほぼゼロに近い値で動かなくなっており、薬はただ症状を抑えるだけという状況になっていることから、手術しかないということは自分でも感じ始めていました。薬も再び1日6錠に増えてそれ以降減ることはありませんでした。しかしながら、手術するためにはまとまった日数の入院が必要になることもあり、踏み切るにはまだもう一つ後押しが必要でした。結局ここでも特段強くは手術を勧められず、体調もほとんど変わりなく(加齢による体力の低下はあるものの)、さらに3年過ぎました。
 そして2011年(平成23年)、大阪に転勤。ついに手術を決断することになったのです。
 (次のページに続く)
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