Hamu's Sidewalk CafeHamu's Sidewalk Cafe つれづれ多々雑感


「新!気くばりのすすめ?」 (2003年11月3日更新)

 最近,私が公共の場に行ったり,街を歩いたり,TVを見たりして思うことは,もうちょっと気をまわせばいいのにな・・と思うことが多いのです。ほんのちょっとの気遣いでいいのに・・。
 ここでは,そういうさりげない親切について私の感じた話を述べてみます。
 このことについては御批判や御意見も多いと思います。「気にしなきゃいいのに・・」なんて思う人もいるでしょう。
 私も自分自身は全然気配りの足りない人だと自負してます・・・(爆)。
 でも,私としては大いに議論するべき話しだと思うので,疑問を感じた時は,メールや書き込みしてくださいね。

(注意) 本HPの全部及び一部内容についての無断転載を禁じます。


携帯電話普及後の課題(NEW)

 地方に来て思うこと&最近のニュースから。
 この欄で何度か携帯について述べていましたが、それから数年たって、さらに携帯は普及が進み、ほぼ1人1台携帯電話を持つ時代になりました。携帯が生活の一部になっていく中で、マナーの方も確立してきたように思います。ただ、特に地方都市では、寛容なのか、迷惑をかける相手が少ないからなのか、まだ結構気になる状況が残っていて、JRやバスの中で大声で電話したり、車を運転しながら運転したり(違反なんだけど・・)している人が多いです。さらには、自転車に乗りながら電話をしている若者。危ないったらありゃしない。マジ都会なら死ぬよ。電話をしている時は、特に気持ちが話の方に行きがちで、注意力が散漫になります。(そういう意味ではハンズフリーも安全とは言えないのであるが)
 マナーというのは、他に迷惑をかけないというのは当然であるが、自分の安全を守ることによって他の人に不安を与えないと言う気くばりもマナーのうちなのではないでしょうか。
 ところで話は変わって、どこかの総合病院で病室内での携帯電話を認めるという、画期的な取り組みがなされたという報道がありました。hamuは以前から「機器に影響を与える」という理由で携帯が使えない状況があることに疑問を呈し、この欄でも述べてきたところですが、今回のその取り組みは大変歓迎すべきことです。
 この時代に、特に入院中の患者さんについて、病院で携帯が使えないことはとても苦痛なことなのです。公衆電話があるじゃないかと言う人もいますが、それは素人考えであって、公衆電話はかける一方だし、そこまで行かなきゃなんないし、しかも使用中が多い。メールやIモードもできない。今の時代、このような状況は外との隔離を意味します。(こういうのをデジタルデバイドというらしい。)実際こっそり携帯を持ち歩いてトイレなどで使用している人も多く、かえって危険です。
 まだまだ病院で全面的に使用を許可するには危険すぎることは確かですし、病院の状況によっても条件は違いますが、看護師さんのナースコールがわりのPHSが普及しつつあることを見ても、全く不可能な取り組みではないはずです。使用禁止区域を明確に定めて、病室や待合室等に限って認めるということなら、実現可能性はあるのではないでしょうか。もっと多くの病院で携帯解禁への取り組みがなされるよう希望します。(個人的には外来の待合室にも認めてほしい。いつまで待たされるかわからない時に外と連絡とれないのは困る。)
 それにしても、病院のような一番命にかかわる場所でもこういう取り組みが検討されていることを見れば、未だに「電源を切って」などという公共交通機関はすぐにでも解禁への対策が練ることができるはずだと思うのは、素人考えなのだろうか。


「見沼区」ってダサい?

 埼玉県民ではありませんが、2002年11月の新聞報道から疑問を感じたことを率直に。
 浦和、与野、大宮市の三市が合併してできた埼玉県の新しい県庁所在地「さいたま市」は、人口が100万を超え政令指定都市になることから、新しい区割りが先日決定されました。その区割りとは、浦和区、大宮区、中央区、北区、西区、南区、緑区、桜区そして見沼区です。 2003年4月からはさいたま市の住所にこれらの区の名前を書くことになり、区役所も置かれます。
 ところでこの区の名前を決めるにあたって、大変もめたところがあります。それが「見沼(みぬま)区」です。区の名前を決めるにあたっては、事前に住民アンケートがあったそうですが、この地域で「見沼区」は4位だったそうです。(1位は「大宮東区」)。しかしながら「見沼区」が採用されました。これに怒った「住民グループ」が数万件の署名を集め反対運動を起こしましたが、結局市議会で原案通り決まったのです。
 ここまで読むと、住民の民意が反映されていない行政の強引なおしつけで、TVの「噂の東京マガジン」あたりに出てきそうなよくある話だし、行政はけしからんということになると思います。
 しかし、この問題についての新聞報道を読んでいくと、少し不思議に思ったことがあります。新聞によると、住民は「見沼区」の「沼」という字が泥臭くて、田舎臭いイメージだから住民が嫌がった。そうでなくても「ダサイタマ」とか言われているのに、余計ダサくなると・・・。だから反対したと書いてありました。
 それを見て疑問に思いました。そんな理由程度なら、そうムキになって反対することもなくて、「見沼区」でいいんじゃないかと。。。
 hamuの感覚では見沼って、ハスの花が咲いていて、郊外のみずみずしいイメージがプラスに感じられ素敵な名前だと思います。なのに、なんでそんなに背伸びして都会って言いたがるの?そういうのがかえってダサいんじゃないかって。。。反対派案の「さいたま市東区」なんて、ぜんぜん個性がないし、つまんない名前じゃないのかなって。
 しかも「沼」という文字が泥臭いイメージで嫌っているのだとすれば、それは「沼津市」や「沼田市」の人をバカにしているような気もしました。
 そうしていろいろ見ているうち、本当にこの地域の人が「見沼区」という名前を嫌がっているのかな?もしかして「住民グループ」の反体制のための住民運動に利用されているのでは?とうがった見方をしてしまうようになり、この問題についてもう少し調べてみようと思いました。
 早速hamuは見沼区地域に現地調査にも出かけました。(この休日は暇だったので・・笑)。東北自動車道の岩槻ICから、少し西(大宮方面)に向かうとすぐにさいたま市に入り、そのあたりが「見沼区」になります。大宮駅からは5、6km離れています。
 いろいろ調べてわかったこと。(たくさんあるのですが、長くなるので要約して・・・)
  1 不動産業界では、「沼」という文字がつく地名は沼地であったために地盤が弱く、家を建てるのには適当でない。という常識があるため、「見沼区」という名前だと地価が下がってしまい、財産価値が薄れてしまうこと。
  2 実際に、昭和40年代に新しく建てられた住宅が地盤の弱さを計算に入れていなかったため、家が傾いてしまった事故が起きたこと。
  3 1,2の理由により、昔からこの地域に住んでいる人には、「見沼」という名前に苦いイメージを持っていること。
  4 実は「見沼」は「見沼区」のある地域のもっと南の方にあって、この地域だけを見沼というには適当でないこと。
  5 「見沼区」の地域は実際のどかな場所で、ブドウ畑などが多い。都会派の人から見ればやはりチョット「田舎」かなって感じ。
  6 この地域の人(だけでなく埼玉県人共通だが)は、東京に通勤している人が多く、名前だけでも都会らしくしたい願望が強いこと。

 1〜3については、確かに住民の心情は理解すべきだが、これは不動産や建築業界の問題でもあるので、それが単なるデマであることに気づけば、なんら問題がないこと。(そもそも家を建てる時は事前に地盤調査などの対応をしておくべきであり、名前だけで判断することではないため。)
 4については、よく調べると、やはりこの地域は「見沼代用水」によって見沼の水の恩恵を受けていて、「見沼区」という名前に違和感はないこと。
 5、6については、「見沼区」がその特徴を生かし、他の地区の人もあこがれる住み良い街になれば、コンプレックスも感じることもなくなるのではということ。これらのことから、県外者が勝手なことを言うのも何ですが、hamuは「見沼区」でいいじゃないか。という結論にいたりました。
 意見はいろいろあるとは思いますが、総じて言えることは、この「見沼区」問題は、
 ・行政は住民の意見を十分聞いて、実情を調査した上で、民意を反映するという気くばりが足りない。
 ・住民(反対派)は行政不信を前に押し出し過ぎて、他の人に対する気くばりが足りない。
 ・マスコミは、(「見沼」という名前がダサいという)興味のそそる話だけを話題にしていて、問題の本質を伝える気くばりが足りない。
 ・不動産などの業界は、地名だけで地盤が弱いとか決めつけてしまい、元から居る住民などに対する気くばりが足りない。

ということが原因だったのでは、って思います。 今後、全国のあちこちで市町村合併が検討されていますが、なんか同じような問題が起きそうです。
 それぞれ思惑があることはわかっています。でも、おのおのが少しでも気くばりをもって歩み寄れば、解決できることなんじゃないかなって思います。
 今後「見沼区」がどのように発展していくのか、見守っていきたいものです。


学校週休2日制に思う

  2002年4月から公立小・中学校・高校の完全週休2日制が実施されました。そこで最近のTV報道等でふと思ったことを。
 学校完全週休2日制、マスコミ報道等ではどちらかというとマイナス面が強調されています。それはほとんどの場合学力面でということです。それを危惧して補習授業が行われたりしている学校もあります。子供を持つ親からはやはり心配の声が多い。まだまだ世の中に学歴社会が根強く残っている上、地域社会に休んだ分の受け皿が不足しているような状況では、親の負担も増えるし、その心配は当然のことでしょう。
 しかし、「学力低下」だなんて心配するのは、なんだか自分のことしか考えていないという気もします。
 hamu個人の考えでいうと、親の心配は分からなくはないが(親になってみないと分からないかもしれないが)、でも週休2日制そのものは基本的に大賛成です。
 なぜなら、休みが増えたことによって子供たちにとってとても貴重な時間が与えられたからと思うからです。そして、この貴重な時間を大切に使うために、補習授業や学習塾へ行くのではなく、ぜひボランティアに時間を費やせないか?と思うんです。
 ボランティアと一言で言えば、堅苦しいし、しかも何だか強制されているようなイメージもあります。それは、ボランティアというとどうしても介護ボランティアや災害ボランティアを思い浮かべるからかもしれません。
 しかし、ボランティアってそんな難しいものじゃないって思うんです。何かをしようと思うから難しいのでって、例えば道を歩いていてゴミが落ちていたら拾う、これも立派なボランティアだし、何か家のお手伝いをするというのもボランティアになると思います。そしていつも人のことを考えるという精神が身に付けば、どんなボランティアだって苦にならないはず。
 折角増えた時間、受験勉強に使うのではあまり意味ないし、寝たりTVゲームしたりして過ごすのはもっと良くない。
 子供たちには、何か人のためにできることを探して欲しいと思うんですが、こういう考えってあさはかでしょうか。 


便利すぎるIT

  最近仕事をしていていつも感じることです。時代は高度情報化社会となり、自分の職場でも近年IT化が急速に進められ、イントラネットを通じた内部での書類のやりとり、そして外部との打ち合わせ、申請手続き、商談など、いろいろな仕事がe-メールやWebページを通じて行われるようになりました。いながらにしていろいろな情報が得られ、移動などの無駄な時間が省かれ、効率的な仕事ができることは、非常に有用なことです。自分もITを利用しなければ仕事が出来ないくらいになってきています。
 しかし、最近思うことは、ITが導入されれば、仕事が効率化されて楽になるはずが、逆にITに振り回されて非常に多忙になってきているような気がするのです。
 出勤してパソコンに電源を入れると、容赦なしにメールが入ってくる。その中には、非常に重要で時間が限られているようなものもあります。(もちろん、どうでもいいようなメールも入ってきますが・・・)そして、質問もメールでどんどん来ます。それはメールで返事を求められます。
 ましてや、休んだり、出張に行ったりして、戻ってきたら鬼のようなメールの山でいやになってきます。一つ一つ読んでいたら、それだけで半日が終わってしまいそうです。そして、もしメールを見落としてしまった場合、抗議の電話がかかってきます。「メールに期限が書いてあったはず」だと・・・。
 もっとひどいのは、印刷して製本するくらいの100ページの書類をPDFファイルで平気で送ってきたり(結局こちらでプリントアウトするので紙の節約にならない)、電話で分からないことを聞くと、Webページを見てくれとか・・・。さらには、個人的な相談事や頼み事まで全部メールです(若い人に多いです)。こうなるとパソコンの電源を入れるのさえもイヤになってきます。
 ちょっと以前のことを考えてみました。人に仕事やものごとを頼むとき、電話してアポをとったあと、足を運んだりしていました。ちょっと苦手な人にも頭を下げに行ったりして・・・。そしてイヤな顔をされつつも、こちらが必死な表情を見せると取り合ってもらったりして・・・。うまくいかないときは、なんとか理解が得られるような説明ができるように勉強します。そして、何度も何度も足を運びます。
 それが今は、すべてメールですまされてしまう。メールに「お忙しいところ恐縮ですが・・」とは書いてあるものの、どうも、納得できない。誠意が伝わってこないのだ。一方では添付ファイルで送ってもらえればすむようなものでも、足を運んで一言があれば、一肌脱ごうという気持ちになる。
 こういう時代だからこそ、血の通ったface-to-face(それはお互い向き合うこと)が「e-仕事(いい仕事)」をしていく上で重要なんだと思います。
 仕事に限らず何事においても同じです。メールですますことなく、自分で足を運んで(それができないときはせめて電話ででも)、誠意を見せる。その気持ちが重要なのではないかと思うのですが、この考えは時代遅れなのでしょうか?


気くばりも方便?

  先日のニュースからです。首都圏のJRの駅の多くは、発車の際のベルの代わりにメロディを流しています。(鉄道ファンの間では、これを「発メロ」と言うらしい。)これは、通勤の苦痛を少しでも和らげ、また駅の雰囲気やイメージアップのためのものであります。
 ところで、この発メロには、100近くの種類があって、よく聞くJRのオリジナルのもの、童謡などをアレンジしたもの、川のせせらぎなど疑似音などをメロディ化したものといろいろあります。特筆すべきはJR蒲田駅のホームに流れる「蒲田行進曲」は有名です。
 さて、先日、神奈川県茅ヶ崎市において、JR茅ヶ崎駅のこの「発メロ」を、この地ゆかりのスター、サザンオールスターズの曲にして、(8番線までホームがあるので、各ホームごとに8曲)茅ヶ崎のイメージアップを図ろうという住民運動が起こり、JRに申し入れたのです。とても愉快なアイデアで、住民の多くは大賛成だったそうです。しかし、茅ヶ崎駅はこれを渋りました。その理由が、「茅ヶ崎=サザンのイメージを快く思ってない人もいる」「発メロは安全のためのものであるため、歌謡曲はなじまない」というのです。一見、いろんな人に対する「気くばり」を理由に渋っているように感じます。しかし、この理由、「蒲田行進曲」が発メロになっていることを考えれば、蒲田とは風土が違うということを考慮に入れても、全然説得力がないのです。
 本音は、この作業、実はお役所仕事で、駅の方から、JR東日本本社や茅ヶ崎市役所に申請に行って(これが大変らしい)、作曲、演奏を発注して(註:発メロを作成している会社は3社ほどです)、とかいうことが面倒で費用がかかるということなのです。(ちなみにJR立川駅は、住民運動により、どこでも聞く標準のメロディから、立川駅独自のメロディに変更になっています。)
 言いたかったことは、ものごとを無難に収めようとする「気くばり」は、本当の気くばりと言えるのかはなはだ疑問に感じる。ということです。
 結局、発メロとしてではなく、夏の間だけ、BGMとして流すということで決着がつきました。(不完全燃焼です。)


日本人の「I'm sorry」の美

 先日TVを見ていて面白い話がありました。野球の米大リーグがはやっていますが、日本ではバッターにデッドボールを当てると、帽子を取ってバッターに謝るけど、アメリカでは、「当てたのは事故で悪気はないのだから、謝る必要は全くなし」ということで、一切知らない顔をします。野茂選手も、日本にいたころは、ちゃんと帽子をとっていたけど、今は知らない顔をしています。
 普通の生活でも、日本人はよく相手が悪くても「すみません」「ごめんなさい」を連発します。一方欧米人は明かに自分が間違っていることがない限り「Excuse me」ということはあっても「I'm sorry」は言いません。
 それはそれで文化の違いだから良いのですが、最近思うのは、日本人の方が、変に西洋ナイズドされてきていて、知らん顔をする人が多くなってきているということです。本来西洋人の個人主義は、フレンドリーやアットホームということがまず基本にあるのですが、それが日本に輸入されると、自分たちの本来持っている心を捨て、自分に都合のいい自分勝手な個人主義だけが取り入れられているような気がします。
 自分が悪くても相手が悪くても、「すみません」「ごめんなさい」。それは相手を気遣う優しい心。日本人の心じゃないですか。西洋人もその部分は賞賛しています。 もっと日本人は、自分たちの持ってるすばらしい「 I'm sorry」の心に誇りをもつべきだと思います。その上で、西洋の良い所も取り入れるべきだと思います。
 話は飛びますが、アメリカ政府は「京都議定書」への拒否の理由として、「自分たちに利益がないから」と言いました。言い換えれば自分たちにメリットがなければ資源を守る必要さえない。というようにとれます。これはアメリカの個人主義のマイナスの部分が現れたものだと思います。実際アメリカではどこに行っても、暖房がんがん、灯りは昼のように明るく、食べ物はたくさん作ってすぐ捨てる。こういうのは見習う必要はないと思いますね。(ちょっと厳しいかな?アメリカは好きなんだけど・・)


ホーム転落事故防止への提言

 先日JR新大久保駅でホームから転落した人を助けるために,線路に降りたところを電車にはねられたという非常に痛ましい事故がありました。また,その後京王線つつじヶ丘でも、妊婦が貧血で倒れ線路に転落,ホームにいた人が線路に降りて間一髪で助けるということもありました。
 他にも事故や自殺など,線路にまつわる悲劇は後を絶ちません。そこで緊急提言。現在営団南北線やゆりかもめ,大阪や神戸などの新交通に設置されているホームドア(いわゆる2重ドア)を特に都市の通勤圏の各駅に設置することを提言します。ホームドアの利点は、当然転落事故を防げるだけでなく,混雑時の整列乗車,そして特に地下鉄においては,超不快な列車風を防ぐことができ,また,冷房,暖房の効率も上がります。設置費用がそんなに膨大なものとも思えません。JRなどでは,列車によってドアの位置が違うということもありますが,同型の通勤電車しか走らない山手線内などは問題ないし,工夫次第でどうにでもなりそうなものです。
 あと,点字ブロックが線路に非常に近い位置にあるのというのも気になるところ。解決策が必要です。
 事故がなくなり,「白線の内側にお下がりください」という放送がなくなるためにも,ぜひホームドアの導入を検討すべきではと思うのですが・・・。(ここに書き込むより,電鉄会社に投書した方がよいかも)


携帯=悪?(その2)
 前回の携帯の電源の話題で進展がありましたので話題にします。

 前回,携帯の電源の入切の件でのJRの対応の話題をしましたが,先日京王電車がユニークな対策を発表しました。携帯については,いわゆる優先席の周辺エリアは電源を切ること,そしてそれ以外の場所では電源を入れたままでもOK(もちろん,電車の中で会話をしないなどの最低限のマナーは守るという原則のもと)というのです。私が前回主張したいわゆる使用エリア分けが実現されました。京王の説明によると,強い呼びかけにも関わらず,現在,電車で電源を切っている人は7%しかいないこと,携帯使用者から,「緊急に入った連絡もわからない」「メールもできない」という不満が多かったということです。特に後者についてはいわゆる「iモード」等の普及により,携帯の使用状況が電話からメール中心に移行しつつあることを表しています。すばらしい英断だと思います。これに対してJRはというと,「根本的解決にはならない」「ペースメーカー使用者の行動範囲を狭める」「混雑する車両ではエリア分けが困難」等を理由に,今までどおり電源を切るように求めていくとのことです。確かに,細かい理想を言い出すと問題の多いのは分かっています。それなら,他にももっとバリアフリーに関してやることがあるはずです。他にも,ダイヤが乱れたときに情報がないまま電車の中に何時間も閉じこめられることの対策を考えることの方が大切なのでは?京王線の決断はいわゆる現実的な第一歩なのです。ベストな方法ではありませんが,ベターな方法なのです。我々は時代に応じて変わっていかなければならないと思います。 


イメージ先行

 ネットではタブー(?)の選挙ネタに挑戦(笑)。「気くばり」とはちょっと話題がずれているかもしれないけど・・・
 2000年6月2日,衆議院は解散され,総選挙が行われることとなった。前回の総選挙からは4年目に入っており,この間に,世の中の構造もかなり変わってきているので,そろそろ国民に信を問うということは,必要だろう。
 しかし,誰もが感じると思うが,今回の解散はいきさつが変。。(ま,いつものことだけど・・苦笑)
 元とは言えば,今回の解散への流れは小渕元総理倒れるのニュースから端を発している。
 ちょっと話はそれるが故小渕元総理は,たけしに「海の家のラーメン屋」とか評されるほど,意外に実行力もあったし,何てったって人柄がよかった。(ちなみに,筆者は小渕元総理と誕生日が近く同じ星座,同じ血液型なので親近感がわいている。(もちろん年齢は違う・・笑)小渕元総理のご冥福をお祈りします。)
 ところで,与党(特に自民党)は小渕元総理の没後,その人気と実行力にあやかって,「弔い合戦」と称して,今なら同情票も集まって勝てると考えた。1980年大平首相の時と同様に・・。
 しかし,与党の見込み違いは,森新総理の「神の国」発言を中心とした,ちょっと脇の甘い発言や行動が,野党やマスコミ(あえて国民とは言わない)の厳しいバッシングに遭ったことにあった。
 で,総選挙の結果はいかに・・・・?
 思うに,今回の解散は,どうも,与党も野党も景気対策や福祉問題,財政再建など本質の政策が表面に出ずに,「弔い合戦」,「失言の揚げ足取り」など表面的なイメージだけが先行しているような気がする。
 我々国民としては,そういう雰囲気に翻弄されずに,それぞれの立場として,景気の回復とか,暮らし向きが良くなるためにはどういう選択がよいかを考え,最善の一票を投じたいものである。


携帯=悪?

 JRのキャンペーンと,それに対する報道で感じたことです。
 JRでは最近,「混雑する車内では携帯電話の電源をお切りください。」という車内案内を流しています。ただし,この案内の理由を「着信音や話し声が他の客にとってうるさいから」と勘違いし,サイレントモードにすれば良い,又はメールなら良い,と思っている人は多い。かく言う私も車内で携帯の操作をするときがあります。(電話にはでないけれど・・)でも本当の理由は,携帯の電波が心臓ペースメーカーに悪い影響を与えるからだということも知られています。確かに20cmより近づくと誤作動の可能性が強いことは証明されているし,米国では死亡例もある。日本でもペースメーカー使用人口は20万人おり,やはり注意したいものです。
 しかし,ちょっと気になることがあります。それは,キャンペーンをする側がどうも「携帯=悪」いう観点でしか物事をとらえておらず,なんだかいかにも善人のように振る舞っていることです。確かにペースメーカーを使っている人には携帯は恐怖のほかないでしょう。しかし,一方では加入電話をも上回る携帯電話の普及により,携帯が現代社会を生きる者にとって欠かせないものであることも否定すべきではありません。実際,各地で起こる災害や事故の時も携帯電話が大変重要な役割を果たしているということもあります。だから電源を切ることは根本的な解決策ではないのです。
 最近は一部の人を除き,マナーも守られるようになってきたと思うし,もっと携帯電話の有用性も論じられなければならないと考えます。根本的な解決とは,例えば,禁携帯車両(?)の設定とか,技術的に可能なのかどうかはわかりませんが,ペースメーカーに影響を与えない携帯電話や,逆に携帯電話の影響を受けないペースメーカーの開発など・・・そういう方面にあると思うのですが・・
 なんだか,携帯の方に肩入れしていますが,これは自分が電源を切りたくない言い訳を述べているわけではなくて,この話題で問題にしたいのは,いわゆる「善人」がこれ見よがしに,善を振りかざす事なかれ主義が世の中を横行しているのが気になるということです。どうもその人達は携帯全体が悪のよう振る舞っている・・。しかもその矛先がマナーをきちんと守っている人も含めた若者に向けられている気がしてならないのです。 


韓国のヒロスエ?

 最近TVのニューストピックを見て,感じたことです。
 今,韓国では「S.E.S」という3人組の若い女性アイドルグループがはやっているらしい(日本にも進出している)。ある日本のテレビはこの「S.E.S」を「”韓国のSPEED”と言われている」と紹介している。そして,メンバーの1人である18歳のユージンという女性は,「”韓国の広末涼子”と言われている」らしい。なぜなら,このたび「”韓国のワセダ”と言われている」名門高麗大学に一芸入試で合格し,日本以上の学歴社会である韓国で波紋を呼んでいるからだという。
 このニュースそのものは興味あるのだが,はて??「韓国の・・・」って誰が言ってるのだろう??
 確か韓国では日本の歌謡曲や映画は最近まで禁止されてたはずだし,「広末」「SPEED」というのは,台湾や香港などと違って,ほとんど知られていない名前なのである。
 つまり「韓国のヒロスエ」とは,日本のマスコミが勝手に付けたフレーズなのである。
 よく,「台湾の松坂投手」だとか,「イタリアの梅宮アンナ」だとか,「タイの中田英寿」だとか,例えられた方は全然関係がないのに,なんか個性を無視するような表現が最近やたら使われているように感じる。
 日本ではカリスマ的存在の人でも,よその国の知らない人にたとえられるのはいい気はしないはずだ。
 例えとしてはわかりやすいが,ちょっと配慮に欠けるのでは?
 しかも,非常に相手を見下しているようにも感じる。なぜなら,「アメリカの・・・」とはあまり言わない。むしろ「和製カールルイス」とか言われて喜んでる選手がいたが・・・。これはアメリカは上で,韓国などは下と考えてるからではないか??
 せめて,「韓国でも日本の広末涼子と同じような立場の人がいる」とかいう紹介の仕方はできないか?
 ところで,余談だが,初めに述べた韓国の「S.E.S」というグループはメンバー全員が3カ国語以上話せる優秀なバイリンガルなんだそうだ。


チャリティー

 最近の大地震などにおける募金などで,感じたことです。

 1999年は世紀末と言われるだけあって,世界では大きな地震や事故が相次ぎました。
 特に大きなものは「トルコ大地震」と「台湾大地震」であったと思います。どちらも大惨事でした。地震の被害にあった方にはお見舞い申し上げます。しかし,この2つの地震,死者は「トルコ」の方が多いにも関わらず,日本のマスコミは圧倒的に「台湾」の報道の方が多いのです。同じ外国なのに・・。ただ,このことは,台湾は同じアジアだし,日本から近いし,しかも日本人も多いということで許せます。
 ただ,問題にしたいのは,TVなどでの募金活動なのです。いかにも「台湾が悲惨だから,募金をしろ!!」と言っているように感じたのです。「じゃ,トルコはどうなるの?」と言いたいのです。募金というのは,自分が気の毒に思う人々に対して,自分のできる範囲で自発的に行うものです。ですから,もちろん「台湾の方が身近で,トルコの方が遠くて縁がないから」という理由で,台湾だけに募金するのも構わないし,どちらも関係ないと思うのもそれは仕方ない。つまり強制されるべきものではないのです。私としては,台湾にもトルコにも知り合いはいないし行ったこともないけど,どちらも好きな地域だから,公平に考えたいのです。
 よく,新聞などでも,募金した人の名前を載せたりしますが(しかも,募金をして載ってないと文句を言う人がいる),街の神社の寄進や,同窓会のカンパじゃあるまいし,名前を載せることに何の意味があるのでしょうか?何か,「俺は募金をしてやった」と恩を着せてるような感じがしなくもないです。
 チャリティーは,いくら集まればよいとか,そういう問題ではない。要するに気持ちの問題だと思います。
 世の中には可哀想な人や,逆境にもめげず頑張っている人はたくさんいます。そして,私はその人たちに自分ができる範囲で最大限のことをしたい・・・ただ,それだけなのです。


下りエスカレータ

 これは,私が以前から感じていて,人にも話したことがありますが・・・。
 電車の駅や,スーパーなどで,エスカレータを設置しているところはありますが,その中で気になるのは,上りエスカレータしかないところが多いということです。そもそもエスカレータってなぜ設置するのでしょうか?高低差のある近いフロアへ快適に移動する手段でしょう。 では,上りエスカレータしか設置しないのはなぜ?限られたコストとスペースの中では上りと下りのどちらをとるかというと,位置エネルギーの関係でどうしても上りを取るでしょう。上りはしんどいのでエスカレータを使って楽をする。下りはそれほど体力は使わないので,階段を使う。でも,これって,健康な人のものの考え方だと思いませんか?
 お年寄りに言わせてみると,下りの方がつらいという方が多いのです。足下が見にくかったり,足を曲げるのが困難だったり・・・。
 私も,足を怪我したとき,下り階段はつらかった。そういえば,階段で滑って転ぶときは,大抵降りるときですよね。
 ですから,私は特に駅のような公共の場では,中途半端な予算を使って上りエスカレータのみを設置するメリットがそれほどあるとは思えないのです。設置するなら上り下り両方を設置する。これが,本来じゃないんでしょうか??
 実は,都内にもものすごく意味のない上りエスカレータを設置してる駅があります。本当は写真にして公開したいくらいなのだが・・。


「良い天気」

 ある新聞の投書にあった話です。
 TVの天気予報で,「あしたは全国的に快晴の良い天気になりそうです♪」と言ってた。明るさで売ってる最近流行の女子アナ(私はタレントと思ってる)が話してるもんだから,いかにもルンルンって感じ・・・。
 しかし果たして「快晴」が「良い天気」なのか?・・・TVは誰もが見てる・・TV局は都会にあるかも知れないけど,TVは日照り続きの農家だって見てるのだと・・・その人たちにとってみれば「快晴」は「悪い天気」になるって・・・。
 確かに私も思った。「明日の日曜日は絶好の行楽日和でしょう♪」なんて言われて,日曜日に行楽の予定もなくて家にこもってパソコンをいじってるおいらは思わず「ムカっ」(爆)。まあ,それはひねくれた考え方なんでしょうけどね(笑)
 でも,人間の体質からして,じめじめしてるよりカラッとしてる方が健康的なのは確か。でも,あまりにも無神経すぎるのかな・・・。だから天気予報のお姉さんに一言。「良い天気」と言ってもいいけど,「♪」は言わないでね(謎)・・・ 


「かわいい〜」?

 H11年7月4日付けS新聞のコラムから・・・。
 今更ながら「ぞうさん(ぞうさん ぞうさん おはながながいのね・・♪)」の歌について思うことは?それは,誰もがほのぼのとした親子愛を思うであろう・・。ボキャブラリーの少ない人の言葉を借りれば「かわいい〜♪」歌である・・・
 しかし,この詩を書いた作者「まどみちお」さんは,そんな気持ちは全然なかった・・。「ぞうさん」は鼻が長いから変だとからかわれてて・・そして,こどもの「ぞうさん」はあまりにもいじめられるので,「おいらの母ちゃんも長いんだぞー,いいだろう?」と切り返した。そういう歌なんだそう・・・「ゾウ」は「ゾウ」なんだってこと・・。
 転じて,最近トキの子供「優優」が生まれたけど,あるTV局の女子アナ(また?)がその子供を見て「かわいい〜♪」って言ってたけど,トキはトキとして自分の種を守るために一生懸命(?)頑張ってるのに「かわいい」とは何事か!!ということだ。
 何とも言い難い話しだけど・・・ウーパールーパーとかエリマキトカゲみたいになんか流行の一種として考えるのは確かに変な話だよなー。「かわいい」って言葉がいかにも軽い言葉だということを象徴している話でした。
 なお,「可愛い」については他にも言いたいことがあるので,後日お話しますねー


シルバーシート

 こないだ,電車に乗って目にして私がいろんなことを感じた話です。
 電車は何人か人が立つ程度の込み具合でした(私は立っていました)。そこへ,年齢のころなら70くらいの初老の人が乗ってきました。その人はちょっと足か腰が悪いらしく,何かにつかまって立っているのがやっとの人でした。でも,その人は「まだ自分は若い」とかいう意地があるらしくって,いわゆるシルバーシートは若者が占めているにも関わらず見向きもせず(気にはしてたが),ドアの横に寄りかかって,腰がつらそうなのに背筋を伸ばして上を向いて立っていたのです。もう,座席に座らせてあげないと見てはいられない状況だったのです。しかし,シルバーシートに座ってる人は遠いところにいるから(見えてるはずだけど)知らぬ顔,そして,普通の席に座ってる人も近くにもいるにも関わらず,「あっちにシルバーシートがあるじゃない・・」というような顔をして見て見ぬ振りをしている・・もし,私がそこに座っていたとしても,たぶん,「自分だけいい格好してるように見られ」そうだから席を譲らないかも知れない・・。
 その後ちょっと遠くに座ってた,これも60歳くらいの人かな・・どこかの重役さんみたいに身なりのいい人が上着を脱いで自分の席に置いて初老の人のところへ行って,「あそこに座って」って声をかけて,肩を抱いて自分の座ってた席に連れて行きました・・。その初老の人はバツが悪そうに深くお辞儀をされていました。他の座ってる人もなんか白けた様子で,なんか電車の中が重苦しい感じ・・。でも,席を譲った重役さん(?)は初老の人に向かって,「いやぁ・・都知事選は石原さんが勝ちましたなー」とかどうでもいいような(?)世間話を大声で始めました。これが,車内に流れてた重い空気を吹き飛ばしました・・・・・・。
 私が感じたこと・・・最近は「シルバーシート」という言い方をやめて「優先席」ということにしてるらしいが・・,やっぱり意味ない・・・。皆がどう思うかという話しです。まあ,これからは「ええかっこしい」になってもいいから,気をつけるようにしよう・・・(とは,思ってるがなかなか実行に移せない自分・・)


 今後いろいろ感じたことを述べていきたいと思いますので,お楽しみに・・・。
 なお,皆さんが日頃思っていることもどんどん話してくださいねー。(メールか掲示板書き込みしてください〜)

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