- thyroid surgery by Graves(Basedow) - はむ!のバセドウ20年(甲状腺摘出手術等体験記)

 本サイト管理人はむ!(hamu)は、さる2011年10月、甲状腺の全摘出手術を受けました。長年持ち続けたバセドウ氏病の治療のためです。ホームページを通じて皆さんにお世話になっている管理人はむ!としては、同じような症状と付き合っている方や、その他病気による手術を受けようと思われる方などに少しでも参考になればと思い、この病気にかかってから、手術、再入院、そして現在にいたるまでの経緯をまとめてみました。もし興味があればしばしお付き合いいただければ幸いです。なお、古い話は記憶が定かでない場合があって、時期などが多少正確でないことがありますが御容赦ください。

 なお、このページは一個人の体験記です。ですから正確でない文章も多々あります。本サイトを参考にされる場合、たとえ私と同じような病気・症状であっても、治療方法は人によって違いますので、必ず専門の医師の診察をお受けになってその指示に従ってください。

 

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第2章 甲状腺全摘出手術

1 手術決断まで
 前ページで長々と発症以降の話をしてきたとおり、自分にとって、バセドウ(甲状腺機能亢進症)というものは、薬を飲んでいれば基本的には普段の生活や仕事をしていけることから、なかなか病気とは受け止めづらく、奥歯に挟まった小骨のような存在でした。近年になって手術を勧められるようになってからも、わざわざ痛くない腹を探るようなこともしたくないという気持ちが強かったです。
 しかしながら、甲状腺は肥大する一方。気持ちは少しずつ手術に傾いてきていましたが、それでもまだ決断には至りませんでした。そして、2011年(平成23年)大阪に転勤後いわゆる大学病院に転院してから、「あなたの甲状腺はもう限界まで肥大している。これ以上肥大すると、だんだん手術が難しくなってくる。」と言われ、手術には3週間ほどの入院が必要なこと、自分の場合甲状腺は全摘出が妥当であること、手術は全身麻酔によることなど、具体的な説明があった上で、「手術後は毎日甲状腺ホルモンを補う薬(「チラーヂン」)を飲む必要がある以外は普通の生活が送れる。本病院は多数の手術事例があり、ほとんどの場合通常の仕事や生活に戻っている。安心して任せていただいて良い。」といった話があって、ようやく決断することになりました。
 また、診察において、甲状腺の内部右側に水疱のようなものが見つかり(実は石川の時点から発見はされていた。)、これがどういうものかははっきりしないが、万一腫瘍であったとしても、手術によりその部分も取り除くことができるということもありました。 (これに先立ち針を刺して内容を調べる検査がありましたが、結局手術後までその結果はわからずじまいでした。)
 入院の日程は、当初仕事上の会議や行事が比較的少ない8月ごろを希望していましたが、ベッドの空きがないなどの理由で再三にわたり先延ばし、(今から思えば、大きな手術となるのでスケジュールが合わなかったということだろう。)結局、秋も深まりつつある10月17日になりました。
 
2 入院決定から入院まで
 自分の場合、入院期間は約3週間。手術前1週間と手術後2週間の予定ということになりました。これは一般に甲状腺全摘出手術を受ける人に比べて若干長いものとなっています。甲状腺という部位はちょうど喉仏のすぐ下に対のようにある器官で、喉には食道、声帯その他血管や神経など大切な器官が集まっており、それらに影響を与えないにするため慎重な手術が必要です。また、ホルモンを分泌する器官なので、多数の血管が走っており、手術時は多量の出血が見込まれるということです。しかも自分の場合これが相当肥大しているため、その難しさの度合いが大きいということでした。そのために手術後の回復期間を含めてそれぐらいの長さということでした。但し、手術後の経過によっては多少前後するということでした。
 さて、入院が決まったわけですが、体調は全然悪くない中、そのような長期間休みを取ることは、これまでまじめ(?)に勤め続けた自分にとって忍びない気持ちがありつつも、周りの方々の御理解にも助けられ、まあ良い休養ととらえて3週間+αの休暇を取得しました。(それまでも検査などでちょくちょく休暇あり。)また、少し心配事と言えば、結婚後地方転勤ばかりで大阪に来てから半年、妻のAKIE(北海道出身)はまだ大阪(どころか都会自体)に十分慣れておらず、それまで電車などにも滅多に乗ることない人だったので、自分の入院中、生活面や病院への往復に不安があったということです。とりあえず交通機関や道順を確かめるため、2,3回病院の下見をしたりしました。
 入院に先立ち1か月ほどの間で、診療科も内科から外科へ、あとは全身麻酔ということで麻酔科などの診察を受けました。薬はメルカゾールに加え、さらに甲状腺ホルモンを補うため、2週間ほど前からヨウ化カリウムという薬を追加。入院に必要な準備も整え、そしていよいよ入院です。
 
3 入院生活前半
 2011年(平成23年)の10月17日(月)いよいよ入院の日。朝、AKIEについてきてもらいつつ病院へ。手続きのあと当該フロアののナースステーションを通じ4人部屋の病室へ。自分の場所は見晴らしのいい窓側でした。(但し、窓から職場の建物が見えており、あそこで何が起こっているのだろう?といつも気になる感じでした。)
 入院生活そのものは過去にも盲腸などで経験があったため慣れたものでした。あらかじめ何が必要かということもだいたいわかっており、周到に準備したためほとんど不便を感じることはありませんでした。携帯は病室では使えないがミーティングルームで使用可能、ノートパソコンも周りに迷惑のかからない範囲で使用できネットも接続可能(ミーティングルームにLANケーブルがある。)なので、情報も得られるし、暇つぶしになる本やゲームなどもいろいろ用意したので退屈もしませんでした。
 入院当日は、入院生活のオリエンテーションや、今後の手術を含めたスケジュールを聞き、午後は各種検査(採血とかエコーとか。)がありました。その後神戸から自分の母親と弟が様子を見に来たこともあり、しばし病院内の喫茶でジュースなど飲んだりしてゆったり過ごしていました。そのとき、自分の携帯に「今から自己血を採るので来てください」と呼び出しがかかりました。
 自己血とは、先にも述べたとおり、甲状腺の手術では出血が多量となる可能性があり、場合によっては血液不足になるため輸血が必要になることもある。しかしながら、他人の血の場合何かとリスクがあるため、あらかじめ自分の血を採っておき保存、輸血の際はまずそれを使うというものです。それでも足りない場合は、赤十字社が保有する血液を使うことになるということです。そこまでいったら結構大変なことですが。採血量は400ml、献血と同じです。もっとも恥ずかしながら自分は献血をしたことがないので若干の不安がありましたが、30分ほどで終了。ほとんど体調の変化もありませんでした。
 手術は1週間後の24日(月)。とにかく手術まで体を休めることが重要ということで、この1週間、体調は快調そのものなのにゆっくりしているということがかえって悪い気がしてつらい感じでした。しかし、パソコンが使えたので、職場とメールで仕事のやりとりをしたり、動画見たり、ゲームしたりして暇をもてあますことはほとんどありませんでした。(本当は、サイトのコンテンツ文章作りとかもしようかと思っていたけど、さすがにそこまではできなかった。)
 入院4日目の20日(木)、主治医から手術についての詳細説明をするので、(手術同意書を取るため)家族とともに来て欲しいということで、AKIEにも来てもらって、教室のような部屋で、今回の手術についての概要を聞きました。その内容は、基本的にはこれまで聞いてきたことと同じで、手術は朝から始まり午後までかかる予定であること、あとは手術上でのリスク(多量出血、声帯に当たることにより声あれ、甲状腺摘出によって甲状腺機能が失われることによる症状、カルシウム不足)などの話の詳細を聞きました。リスクの中で最も大きいのは、後出血。これは、手術後何らかの力が加わったとき、傷口から内出血を起こし、それが気管などを圧迫する危険があるというものです。そうなった場合緊急の再手術をしなければならないかもしれない。したがって24時間程度は首を動かしたり、激しい咳をしないよう気をつけるように言われました。(自分的にはこれが一番不安でした。)
 あと、自分は、腫れた甲状腺の右側の内部に水疱があり、これは腫瘍であり、それはまれに悪性である可能性もゼロではないが、今回それも含めて取り除くため大きな問題はないであろうということ、また、そこの部分は手術後病理検査により確認するなどの話がありました。(腫瘍の話はAKIE的には聞き始めだったようで、少しショックを受けた様子でした。)
 手術が近づくにつれだんだん緊張の度合いは増してきましたが、基本は平和で自由な入院生活(病院食だけは、申し訳ないけど健康体には美味しいものとは言えず、量も少ないため、お菓子などを買い食いしたりして補っていました。)。そして、土日を挟んでいよいよ手術の日が近づいてきました。
 
4 手術前日
 手術前日は夜までに入浴などもすませて、夕飯は普通に食べ、夜9時以降が飲食禁止でした。(上半身の手術なので、トイレさえ行っていれば、下剤を飲んで厳密に胃腸を空にするようなことはありませんでした。)翌朝は8時半には手術が始まるということで、手術の体力を温存するため十分な睡眠を取るように言われていたので、早めに眠ろうとしました。寝れないようなら睡眠薬をくれるというのですが、寝れないとは思っていなかったのでその時はもらいませんでした。しかし、寝ろと言われると寝られなくなるのが人間というものでして、特に考え事をしたわけではないんだけど、なかなか眠気が来ず。11時過ぎても眠れなくて、仕方ないので眠剤をもらおうとしたら、看護師さんがやや困惑気味に0時までに飲んでくださいと言って渡されました。それがどうもやっぱり飲まない方がいいものと感じ、飲まずに我慢。しかし0時になっても眠れません。今まで気にならなかった周りの小さな音までも気になるようになってしまい、どんどん時間がたっていきました。そのうちいろんな考え事がまさに「走馬燈のように」かけめぐり、1時、2時、3時と過ぎ、トイレに起きたりしてさらに時間経過。素直に眠剤飲んでりゃよかった。いつもならどれだけ寝れない時でもこれぐらいになるといつの間にか寝ているものですが、いい加減眠くなってきているにも関わらず、神経は高ぶる一方。ついに鳥の声が聞こえて夜明けを迎えました。そこで開き直りを決断。はい一睡もできませんでした。
 
5 手術当日(全身麻酔)
 10月24日。朝6時台。さすがに朝食はなしでしたが、今までの薬は少量の水で飲んでおいてください。とのことで、15年以上お世話になった最後のメルカゾール(甲状腺機能を抑制する薬だから、甲状腺を摘出すれば無用の薬。)を感慨深くいただきました。7時ごろには手術用の寝間着に着替え、エコノミー症候群防止用のソックスを履いて(締め付けるほどぴちぴちの綿製の長い靴下)、血圧、体温などの測定の後、ベッドの上で待機。しばらくして神戸方面から親と弟が、相次いで家からAKIEがやってきました。手術後は一時的に処置室(個室)に移動するので、必要なものをAKIEに預かってもらったりのやりとりをしながら待機していました。
 8時頃、この日は総回診の日だったのでそれを受診してから、ついに8時20分ごろ看護師さんが呼びに来て、付き添いと一緒に歩いて手術室のあるフロアへ向かいました。手術室は数部屋あり、数人の手術待ちの人がロビーで待っていました。それこそ、集団処刑を受ける前の囚人が集まっているような雰囲気で、かなりいやな感じでした。。。順番に名前が呼ばれそれぞれの手術室のエリアへ。そして程なく入口の自動ドアが開き中から手術担当の看護師さんが出て来て自分の名前を呼びました。そして、AKIEたちの励ましを背に、ドアの向こう側のエリアに入りました。そこではまずスリッパを脱いで車いすに座り、そして手術室に運ばれていきました。フロアに降りてから手術室到着までは10分も経っていなかったと思います。
 いよいよ初めての全身麻酔。手術室到着後「下着を全部脱いで横になってください。」と言われ、バスタオルを羽織られながら手術用の幅の狭いベッドに横になりました。その後「点滴を入れます。」「酸素マスク付けます。」この間1~2分。そして「点滴に麻酔を少しずつ入れていきます。」と言われてから20~30秒ほどでしょうか、意識は途絶えました。
 手術の間のことは当然のことながら、自分自身は知る由もないことです。この間、付き添いの家族らはずっと病室フロアのロビーなどで待機していました。特にAKIEと自分の親は、一緒にいて何の話をして、どうやって過ごしていたんだろう・・(これまで遠方に離れていたこともあり長時間一緒にいて話をするようなことはなかったし、いわゆる俗に言う「嫁と姑」の関係なのでうまくやってるのかな、なんて老婆心ながらちょっぴり気になることではありました。)。ま、後で聞いたところによると、適当に食事したり、話したり、めいめい暇つぶしでTV見たり、本を読んだりしていたようです。しかし、手術は午後に入っても終わる気配はなく、待っている間3回食事に行ったそうです。その間、今日手術のあった他の家族はどんどん手術終了して戻ってきたりしていると、AKIEもだんだん不安になり、夕方になっても終わらないので、ついにはパニック状態になりかけていたようです。
 そして手術が終わったのは夜7時半。結局11時間の大手術でした。医師から家族に話があり、サツマイモ大に膨れ上がった甲状腺は、あまりにも大きかったので、肺などにも癒着しており取り出すにも苦労したが、なんとか問題なく取り出せた。旨の話があったようです。
 さて、本人の方ですが、その間は一瞬だったのですが、自分の場合寝不足だったせいか、長い夢から覚めたような、たとえれば宇宙旅行から帰ってきたような気分のまま意識が戻っていきました。体には酸素マスクと点滴やドレーンそれから小便の管などがつながれていていました。手術室では誰かから何か話しかけられ、自分もいろいろしゃべっていたらしく「声ちゃんと出てますね。」ということと、出血が多量になったので自己血を入れました。ということを聞いたことは覚えていますが、それ以外は意識がもうろうとしていてわかりませんでした。その後ベッドのまま(いつの間にか普通のベッドになっている。)エレベーターに乗せられ、元の病棟へ、そして病室(個室)へ向かいました。
 そして家族と対面。自分は何かいろいろしゃべっていたようで、親に足をもませたり、AKIEの腕を握ったり、痰が出るので取ってもらったり、結構注文つけていたようですが、自分は意識がもうろうとしており、その時のことはほとんど覚えていません。ただ元気そうだったので家族はホッとした様子でした。そして遅くなったので、夜9時頃までには順次家に帰って行きました。
 
6 手術翌日まで
 その後一人になって意識がだんだんハッキリするに従い、苦しみの夜が始まりました。手術後の首の傷口の痛くは全くないのですが、いろいろつながれている上に、首を強く動かさないように言われているので身動きが取れないことがつらく、特に、長い手術で背中が固定されていたこともあり、腰と肩の下のあたりがものすごく痛く(腫れていたようだ)これが最も苦しいことでした。自分は軽いヘルニア持ちなので余計にその痛みがありました。
 夜11時ごろ、酸素マスクが外され自力で呼吸。その後1時間おきほどに点滴と血圧測定がありました。本当は寝たかったのだけど背中の痛みが強く、また寒くて(体が冷えていたのか、病室が寒いのかは不明。)なかなか寝られませんでした。首ごと横向きになったり、布団を追加してもらったり、いろいろしていました。でも疲れているせいか、頭は起きているが、体はいびきをかいているという変な感じで、寝ているのか寝ていないのかわからない感覚が一晩中続きました。そしていつの間にかカラスの声が聞こえ初め朝がきたのを知りました。手術時間が睡眠でないとすれば、2日連続でほとんど寝られなかったということになります。
 朝6時ごろ、採血などがあり、心電図の線が外されました。さらに点滴も一旦終了。体を縛り付けたものがだいぶなくなりました。ただ、引き続き小便の管がつながれているので、排尿感がありそれが嫌な気分でした。
 朝7時半には朝食の時間。ここで初めて体を起こすことに。看護師にゆっくりベッドを起こされました。体が45度ほど起きると痰が出てそれが引っかかり、やや喉の奥から咳込む感じが出ました。ここで激しく咳き込むと後出血の恐れがあるので慎重にゆっくり体を起こしていきました。吐き気があるかもしれないと話に聞いていましたがそれは全くありませんでした。さらに体を起こし、1分くらい時間をかけてようやく垂直に座りました。さらに痰が出て咳が出ましたが、激しく咳き込まないようになんとか我慢しました。そして水を飲む練習。やはり、喉の筋肉が少し麻痺している感じで、気管に入りそうになるので、気をつけながらゆっくり飲み込み始めました。こちらの方はすぐ慣れたのでそれほど問題ありませんでした。頭はややぼーっとしているが、つらさはありませんでした。声もかなりだみ声にはなってましたが問題なく出ました。そして、手術後初めての食事。まだご飯は全粥でしたが、それ以外のおかずは普通でした。咳が出ないように気をつけながら、超スローペースで食べました。30分ほどかかりましたが一応全部食べることができました。
 その後は一息。長時間の手術のダメージはほとんどなかったけど、ぼんやり過ごしていました。そして10時ごろになって、歩いて元の病室に行く練習をしましょうということで、ここでようやく小便の管を抜いてもらい(これが実に天国だった)この時点で体につながっている管は傷口につながったドレーンだけになりました。ドレーンはタンクを肩にかけて移動できるので、これで自分でトイレにも行けるし自由の身に。その後、看護師に体を拭いてもらい、手術用の病衣から普通の寝間着に着替えた後、おそるおそる立ち上がりました。若干足下のふらつきはありましたが、ゆっくり歩くことができました。11時間の手術のあと半日程度しかたっていないのに、こうやって動けるのは不思議なことで、本当にありがたいことです。(30年近く前の盲腸の時は手術後3日くらい歩けなかった記憶がある。)
 当初はこの時点で元の4人部屋に戻る予定でしたが、大きい手術だったので少しゆっくりしましょうということで、数日は個室で過ごすことになったため、歩いて2つの病室を往復しました。時々軽い咳と痰が出ましたが問題なし。とにかくまだ後出血の危険が残っているので首を横に動かさないように注意しながら午前中を過ごしました。午後になってAKIEが洗濯したタオルや下着類、手術中預かっていた物などを持ってやって来ました。やや声がかすれているものの普通に話をすることができ、昨日1日の出来事や、手術室から出て来た自分がいろいろしゃべっていたことなどを聞きました。それまで自分は、前日の手術以降何が起こっていたか不明だったので、話を聞いてようやく落ち着きました。夕方には自分の親がまた様子を見に来て同じようなことを話していきました。
 この日の夕食からはもう普通のご飯。軽く咳き込みながらももう普通のペースで食べることができました。夜になって手術後24時間が過ぎ、後出血の危険も薄れひと安心。個室なので病室でノートパソコンを開いて少しメールを打ったりしつつ、あとはゆっくり過ごしました。背中の痛みが続いていたため、看護師に湿布薬を貼ってもらいました。少しあざになっていたようでした。ひんやりとしてかなり効きました。そして消灯。この日まで寝られない日々が続いていましたが、まだ眠りが浅い感じはありましたが、久々にストーリーのある夢を見るほどに眠ることができました。
 
7 手術2日目以降1週間後まで
 なんとか無事に手術も終わり、最も危険な1日が過ぎましたが、その後さらに約2週間入院が必要です。それは手術の傷口の回復のためでもありますが、何しろ甲状腺を全部摘出しているわけなので、これ以降甲状腺が果たすべき機能(ホルモン分泌)が働きません。そのため薬にて補っていくわけで、それがチラーヂンという薬です。これからはこの薬と一生付き合うことになります。しかしながら、それは手術後3日目からスタートするため(理由はわかりませんが、たぶん手術後すぐは体が薬を受け付けないためと思われます。)しばらくはホルモンやカルシウム不足による手足のしびれなどが懸念されます。そのため点滴でカルシウムを補いながら、入院生活を送り、体調の回復に努めるわけです。
 手術の翌々日くらいまでは、背中が痛いぐらいで、手術の傷口もほとんど痛みもなく(つっぱり感は少々ありますが)、頭は少しぼーっとしているけれど普通に歩けるし、2週間もいらずに退院できるかなくらいに思っていたのですが、3日目くらいから頭のぼんやり感が増してきて、もやもやした感じになってきました。手術後3日目の木曜日ごろには、まるで世の中がヴェールで包まれたような激しいもやもや感と偏頭痛におそわれ、しかしベッドで横になっても寝られず、つらい状況の時がありました。医師などに話しましたが、あまり関心を持たれなかった感じで、ま、手術後の出血も多かったので貧血気味というところか、この日からチラーヂンの投薬を始めているし、日にちが経てば自然と治ってくるだろうというところでした。(実際そういうことだったんですが、その時点では結構つらかった。)
 その後もぼーっとした感じは続きました。実際血圧が低い状態が数日続き(上が100以下。本来の自分は120前後)、何かしたくても気力がわいてこないという感じでした。あと寒気もありました。軽い頭痛も続いたのでこれに関しては頭痛薬をもらいました。一方、懸念された手足のしびれのようなものはほとんどありませんでした。これらの症状についてはどうも訴えてもなしのつぶてのような感じなので、自分でなんとかすべく太陽に当たりに行ったり、何とか病院の散歩コースを歩いて外の空気を吸いに行ったり(足下がふらついて転びそうになった時がありましたが)、病院食で足りないために少し買い食いしたりしました。それで回復したというわけではありませんが、気分転換にはなりました。
 金曜日には職場の人が数人様子を見に来てくれたりしました。意外と元気そうに見えたようです。ま、もやもや感以外はそれほど問題なかったし、普通にしゃべれるし、おしゃべりにより気が紛れるということもありました。手術後5日目の土曜日には初めて洗髪。それから傷口と点滴口をカバーしつつ風呂(シャワー)に入ることができ、(それまでは体を拭くだけ)ちょっとスッキリしました。(風呂は交代制で、着替えて風呂入って出るまで15分以内という慌ただしいものだった。)このあたりから気分はようやく上向きになってきましたが、相変わらずもやもや感が続いたため、何かパソコンでもしようというような気力はあまり出ませんでした。
 
8 (手術後2週目から)退院まで
 手術後1週間たった月曜日には、カルシウムの点滴が1日3回から1回に、そしてその翌日の火曜日、手術の傷口につながっていたドレーンの管を抜いてもらいこれで移動するために持ち歩くタンクがなくなりスッキリ。その翌日から手術跡をテープで押さえて皮膚が広がらないようにして傷跡を目立たないようにするテープ療法(数ヶ月続く)が始まりました。さらに水曜日にはカルシウムの値が正常の範囲内に入ったということで、点滴も終了。体についている道具はすべてなくなりました。(引き続きカルシウム補給のため、アルファロールというビタミンDの薬を3錠飲み続けることとなった。)しかしながら相変わらずぼーっとした感じは続いています。血圧も低く、そろそろ退院も視野においてというところでしたが、社会復帰するには自分でも少し心許ない感じでありました。そのためかどうか、チラーヂンを増量(50μgを1日4錠、その後もずっと続く。)することになりました。
 手術後10日を過ぎても、ぼっーという感じは引き続きありましたが、それより個室から4人部屋に戻り物音で寝られない感じもあるし、病院の食事もやっぱり病院食という感じだし(当たり前だけど)、病室にいてもあんまり集中して何かをできる感じでもないし、いい加減入院も飽きてきていました。そして金曜日、ようやく次の月曜日の退院が決まりました。ま、予定どおり2週間でした。そして、土日は病院にいてもつまらないだけなので、金曜日の夜から日曜日まで外泊許可をもらいました。(2日続けて外泊できない決まりなので、土曜日一旦病院に戻って血圧・体温など測定してからもう一度外泊申請を出す。)3週間ぶりの自宅はやっぱりほっとします。しかし、まだ体力は十分回復していないため、ほとんど横になっていました。
 土日と家でゆっくり過ごし、普通の食事をして、家でかなり時間をかけてシャワーを浴びたりしたおかげで、かなり体の感覚が戻ってきました。シャワーの後、AKIEに手術の傷跡のテープを貼り直してもらった時、改めて傷口を鏡で見てみました。やっぱり傷そのものは大きく、傷の周りの感覚が薄れていたため、改めて大きな手術だったなと実感したものの、痛みはないし、傷は首の下のラインにそってかなりきれいになっており、跡形はほとんど目立たない感じでした。その後日曜日に夕食を食べた後病院に戻り、最後の入院生活を送りました。(寝れなかった~)
 そして丁度入院から3週間後、手術から2週間後の2011年11月7日の午前、無事退院しました。しかしながら、すぐに仕事に行くにはさすがに体力的に無理で、様子を見ながら出勤の日を決めることにしました。しかし長期の休みで周りにも迷惑かけており、これ以上は休んでいられないし、普段どおりの生活をしながら徐々に回復ということで、翌々日の水曜日に初出勤。歩き回るとさすがに頭がふらふらしましたが、机の前に座ってデスクワークしている分にはほとんど支障なく仕事はできました。
 さあ、これで毎日のチラーヂンとアルファロールの服用を欠かさないようにすれば、後は日にち薬、体調もすぐに回復し、めでたしめでたしというところでしたが、もう一つ試練が待っていました。それは次ページで
 
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